毎年秋、今治市立北郷中学校からの依頼で、地域連携センター長の大成経凡先生(同校1989年卒業)が同校1学年のふるさと学習の講師を務めています。
今年は9月25日午後に開催され、1年生92名・教員8名の計100名を対象に、演題「北郷ぶらぶら歩き~いまばり博士検定in北郷中校区~」で、休憩を挟んで80分ほどお話させていただきました。北郷中学は、波方小学校と波止浜小学校の校区からなり、大成先生が中学生の頃は、愛媛県今治市及び波方町共立北郷中学校組合立北郷中学校の校名で、愛媛県で3番目に長い校名とのことでした(1番は高知県と愛媛県の県境にあった篠山小・中学校)。
講演は、今治市ご当地検定の「いまばり博士」にならって、クイズ形式3択で8問を出題。波方や波止浜の地名の由来ともなった波止浜塩田開発の説明に多くの時間を割きました。波方町は、昭和35(1960)年3月1日の町制施行までは同じ「波方」の文字で〝はがた〟村と読ませ、これは塩田開発の干拓前に存在した入江「筥潟湾」(はこがたわん)の発音が詰まったものとされています。町制施行の際、伯方島の伯方町と区別するために、漢字はそのままで読み方を変えてしまったのです。
一方の波止浜は、江戸時代の1683年に誕生した港町と塩浜を併せた地域をいい、遠浅の干潟を高石垣の堤防で取り囲み、その内側の低地を入浜塩田としました。汐留めに築いた堤防を「波止」(はと)、つくられた塩浜を「浜」とすることで、両者を併せて波止浜(はしはま)という地名になったと考えられます。
波止浜の塩田跡には、地堀川や中堀川などの小川がありますが、これらは各塩浜に燃料を運んだり、塩を積み出したりする小舟が通うための運河の名残で、「入川」(いりかわ)と呼ばれます。また、塩田開発により、内陸の高部(たかべ)・杣田(そまだ)・樋口(ひのくち)地区などでは水田が増えました。干潟だった時の名残として、今治市役所波方支所付近には、そこでかつてメバルを釣っていた「メバル岩」や潮の流れが早かった「潮早(神社)」などの史跡や地名が見られます。ふだん、当たり前のように見過ごしている風景や、何気なく口にする地名に興味を持っていただけたなら幸いです。他にも、卒業生である洋画家・智内兄助画伯(76歳)の活躍や波止浜が生んだ偉大な実業家・八木亀三郎の事績なども紹介させていただきました。
塩田があった頃の波止浜湾(絵葉書より) |
波止浜塩田の作業風景(絵葉書より) |
10月30日午前中には、この日の学習成果をもとに、生徒たちは自転車で校区内の名所や旧跡をめぐります。大成先生は波止浜の龍神社に待機してガイドを行う予定です。ちなみに、クイズの結果ですが、全問正解者なし。6問正解の生徒7~8名でジャンケン大会をし、チャンピオンには智内画伯のサイン色紙が、ほか2名には本学のクリアファイル・カラーペンがプレゼントされました。