2025年10月16日木曜日

大学公開講座 10月11日 「今治地方の風土と産業」

 10月11日(土曜)午前中、本学3号館333教室で、「今治地方の風土と産業 ~製塩業と海運業の身近なルーツ~」の演題で公開講座が開催されました。受講者約20名の中には、父親と一緒に受講する小学6年生の児童もいました。



 かねてから、今治地方の歴史をテーマとする講座内容の要望が多くあったことから、今回は地域史研究家でもある本学の大成経凡先生が登壇し、先生の十八番でもある入浜(いりはま)塩田開発に始まる今治地方の製塩業史についてご講演いただきました。そもそも、藩政時代に瀬戸内海沿岸で普及した入浜塩田は、瀬戸内海式気候や花崗岩質(かこうがんしつ)の土壌といった風土が大きく影響していました。1683年に誕生した波止浜塩田を事例にあげながら、国内塩業がどのように進展し、瀬戸内海地方の人々の暮らしに影響を与えたのかを解説しました。

 入浜塩田に最適な条件を備えた瀬戸内海地方では、江戸時代後期になると国内塩の約9割がそこで生産されたようです。しかし、生産過剰で塩価が下落すると、主要な塩田産地が協議して生産調整を行うなどの努力も見られました(十州塩田同盟)。江戸後期から、窯焚き燃料が松の薪(たきぎ)から石炭に変わっていくのも、産地の努力の賜物で、冬季中は操業しないなどの取り決めもされたようです。その冬季中に、今治地方の島しょ部では、塩田労働者の浜子の中に杜氏(酒造り)の出稼ぎをする人々もいたようです。

 藩がなくなった明治以降も、生産過剰には歯止めがかかりませんでした。これは明治38(1905)年1月施行の塩専売法によって、政府が生産・流通・販売に強い権限を持って小規模塩田や不良塩田を整理するなどして、徐々に解消されていきました。今治地方では、その専売制施行までの過渡期において、明治20年代に波止浜の商人・八木亀三郎が瀬戸内海の食塩を朝鮮元山やロシア沿海州のウラジオストクへ帆船で売りに行くという、いわゆる今治地方最初期の外航海運業が見られました。結果的に、亀三郎は明治26(1893)年からニコライフスクを拠点に塩蔵鮭の製造・輸入で富を蓄積していきます。現地のアムール川河口で捕れたサケ・マスを瀬戸内海産の塩にまぶし、その食塩の海上輸送でも利益を得たのです。愛媛を代表する実業家として成功した亀三郎は、その後、波止浜船渠造船所(現、新来島波止浜どっく)や今治瓦斯(現、四国ガス)の創設にもかかわり、今治商業銀行(現、伊予銀行)の頭取を明治32(1895)年から30年余り務めるなど、〝今治地方の渋沢栄一〟のような活躍を見せます。

1927年頃撮影の波止浜湾と入浜塩田

 波止浜船渠造船所は、波止浜の塩田地主である浜旦那たちの出資で誕生した、愛媛県最初の本格的な洋式造船所といえるものでした。波止浜塩田の42番浜を廃止し、その用地にあてました。当時、わが国は海運ブームが到来し、当地方でも船主が増え始め、海上輸送が盛んな時期でした。塩田の豊かさが、当地方に近代造船業や海運業をもたらす要因ともなります。亀三郎については、少なくとも明治37(1904)年に3,000総㌧級の大型鉄鋼船「樺太丸」を所有していたことが分かっていて、これは当地方における大型鉄鋼船主の嚆矢(こうし)といえるものでした。波方船主については、塩専売制導入後、瀬戸内海に集中する塩田の動向をみて、石炭積出港の宇部(山口県)や門司・若松(福岡県)へ帆船を走らせ、そこで石炭を積載して多喜浜や赤穂、坂出や鳴門などの塩田産地へ運ぶことで隻数を増やしていきました。帆船は昭和初期になると機帆船へと変わり、船のサイズも大型化していきました。当地方の海運業の勃興には、塩田用石炭の輸送が大きく関係しているのです。


1941年撮影の波方船主の機帆船


今治地方最初の洋式造船所の波止浜船渠

 最終的に、わが国の塩田は昭和46(1971)年の第4次塩業整備でなくなり、食塩はすべてイオン交換膜製塩工場で製造されることとなります。その際、伯方島の塩田を残して欲しいという消費者運動が松山市で起こり、その関係者が同48(1973)年に伯方塩業(株)を創業し、オーストラリアまたはメキシコの天日海塩を輸入することで、塩田塩を国民が食する道が部分的に認められました。同社は、自社の塩を売るため、国内の塩メーカーで初めてTVコマーシャルにも挑戦しました。あの有名な「は・か・た・の・し・お♪」です。平成9(1997)年に塩事業法が施行されると、誰もが許可制で塩をつくれる時代となり、食品表示のいい加減な塩メーカーが乱立して消費者は混乱をきたします。このとき、同社の丸本執正社長が主要塩メーカーと連携し、平成18(2006)年に食用公正取引協議会準備会を設立し、今日の〝しお公正マーク〟の導入につなげました。同マークの塩商品は、食品表示をみれば製造方法がひと目で分かり、こだわり塩を食したい消費者には安心・安全が担保されました。そして同社は、念願であった枝条架流下式塩田を平成22(2010)年10月に大三島工場へ復元し、そこで製造される〝されど塩〟〝されど藻塩〟という商品は、今治の海水を用いた100%の食塩となります。


伯方塩業(株)が復元した枝条架流下式塩田


以上、塩にまつわる話を風土や海事産業と関連させながら、最後はFoodのお話で締めくくりました。この日の講演内容は、日を改めて今治CATVの番組で放送予定です。




2025年10月15日水曜日

授業紹介 「地域社会論・地域交流演習」黒イチジクの収穫体験(10月9日)

10月9日(木曜)午後の共通教育科目「地域社会論・地域交流演習」(大成経凡先生)は、39名の履修生と2名の聴講生をともない、今治市大島(宮窪町・吉海町)をフィールドワークしました。学生の内訳は、ミャンマー23名・ネパール11名・インドネシア4名・日本3名となります。

映日果農園

最初の目的地は宮窪町宮窪の「映日果(えいじつか)農園」で、映日果はイチジクを意味します。同園は本学と包括連携協定を結ぶNPO法人「能島の里」が管理するイチジク畑なのです。耕作放棄地だった畑を2019年から整備し、約40㌃で黒イチジクを栽培しています。このイチジクは、フランス原産の高級品種「ビオレソリエス」のことで、黒く薄い皮と高い糖度が特徴です。その希少性から〝黒いダイヤ〟も呼ばれています。国内では佐賀県や北陸で生産されていて、同法人では佐賀県に次ぐ2番目の産地を目指して栽培に着手し、2023年から収穫できるようになりました。

イチジクは足(傷み)が早いことから、生果の販売だけでなく、同法人が管理する「カフェ映日果」(宮窪石文化運動公園内)でジャム製造も行うなど、収益性の高い6次化産業を目指しています。昨年は猛暑等で病気にかかって不作に終わりましたが、今年は原因究明を行って対策を行ったことで豊作となりました。そこで、村上理事長にお願いしたところ、2年ぶりに本学生による収穫体験が実現しました。事前に大成先生から諸注意があり、「貴重な売り物の農産物だから、ちぎって食べるのは一人一個でお願いしたい」と。しかし、たくさん果実がなっていたこともあり、村上理事長から好きなだけ食べていいとの許可がおり、学生達は3~5個食べていたように思います。あまりの美味しさに、帽子いっぱいに詰め込んで寮の友人に持って帰る学生もいました。


黒イチジクの果実


収穫を楽しむ学生たち

インドネシア留学生は、全員が初めてイチジクを口にすることになりました。ネパール留学生は、母国にもイチジクはあるようですが、初めて食べる学生もいました。同法人の会員2名も収穫のサポートに回って下さり、学生たちは地域住民との交流も楽しむことができました。インドネシア留学生は、この秋に入国したばかりということもあり、帰路に同島吉海町の亀老山展望台にも立ち寄りました。日射しの強い快晴でしたが、四国山地や今治市街地を見渡せ、潮流も速い時間帯ということで、観光を楽しむことにもつながったようです。



初めてイチジクを口にするインドネシア留学生


2025年10月9日木曜日

多文化共生をテーマにしたインタビュー(9月26日、9月30日)

9月26日(金曜)夕方、今治西高校2年生の男子生徒4名が、本学めいたんホール(食堂)で留学生にインタビューをしました。彼らは、同校の地域探究の授業ZESTでグローカル講座を履修している生徒たちで、そのアドバイザーを本学の大成経凡先生が担当しています。彼らの研究テーマは「多文化共生でより良い今治にしよう」というもので、プレゼン資料の情報収集で本学を訪ねてきました。


ちょうどその日は平日ということもあり、訪問時間の16時45分頃は、留学生たちがアルバイトに出発する時間でした。それでも、ミャンマー8名・ネパール4名がめいたんホールに集い、「どうして日本へやってきたのか」「将来は日本で暮らしたいか」「今治での生活に満足しているか」など、生徒たちの質問に1時間ほど快く答えてくれました。国ごとに分かれてインタビューしたことで、その特性や共通点が浮かび上がってきたことでしょう。


高校生のインタビュー(ネパール人留学生)

最初は緊張していた生徒たちも、しだいに打ち解けていったようで、お互いがフレンドリーに会話のキャッチボールを楽しむ姿が印象的でした。多文化共生はあまり難しく考えず、まずは交流することが大切で、そこからお互いをリスペクトする感情が浮かび上がってくるのでしょう。

高校生のインタビュー(ミャンマー人留学生)


9月30日(火曜)午後には、大正大学地域創生学部3回生の高梨雄さんが、今治市の多文化共生の取り組みをフィールドワークする中で、留学生の多い本学を訪ねてきました。この週から本学は後期授業がスタートしましたが、科目等履修の制度で日本語の授業を履修するフィリピン人のジョンさんにインタビューをしました。ジョンさんは、日本語能力の向上を目指し、N3取得に向けて以前から本学の授業を受講されています。今後、今治市に外国人労働者が増える中で、その家族の日本語能力向上に向けて、公的機関や本学が果たす役割も大きいように感じました。


大学生のインタビュー(フィリピン人聴講生)


2025年10月8日水曜日

岡村島の秋祭りに参加(9月27日)

 9月27日(土曜)、今治市関前地域の岡村島・姫子島神社で開催された秋祭りに、本学の学生10名が参加しました(男子は担ぎ手、女子は撮影部隊)。少子高齢化の進展で、これは岡村島だけに限ったことではありませんが、市内には氏神様の神輿渡御(みこしとぎょ)の困難な地区を多く見かけるようになりました。若者がいなくなり、担ぎ手そのものが不足する事態に陥っているのです。昨年、本学介護福祉コースの非常勤講師・島崎義弘先生のお誘いで、その神輿渡御のお手伝いを本学学生と吹揚神社神輿会「今壱会」とが岡村島で行いました。岡村島は島崎先生の故郷でもあり、先生は現在、関前地区の社会福祉協議会にご勤務されています。


お神輿運行


神輿の担ぎ手を経験して分かることは、担がれた神様を氏子である地区住民がどのようにお迎えしているのかということです。高齢者が多いこともあって、神輿の到着を、福の神の到来のように心待ちにしているのです。このため、担ぎ手に感謝の気持ちを込めて、御旅所では飲食のお接待があり、休憩時間に住民との会話を楽しんだりすることもできます。御旅所の数は全部で10箇所くらいあったでしょうか。昼食が必要ないほど、少し進めば御旅所に到着し、お腹を満たすことができます。蒲鉾・ゆで卵・果物・お菓子・ビール・清涼飲料など、食べきれないほどのおもてなしに心も満たされました。


御旅所でくつろぐ学生たち

岡村港とは山をはさんで反対側の白潟港まで神輿は渡御しました。対岸は、広島県呉市の御手洗港や大長港となります。関前地域は県境に位置し、とびしま海道を経由して本州ともつながっています。学生たちは、地域ボランティアに励みながら、小旅行の気分も味わうことができました。さらに、島はじまって依頼の快挙として、本学女子学生らによる女性神輿の運行もあり、貴重な経験をさせていただきました。ある女子学生は、獅子舞の太鼓をたたかせていただきました。早朝7:20に今治港を出港し、同港へ帰港したのは18:33。終わってみれば、あっという間の一日でした。来年も参加したいと思います。


岡村島白潟港(背後は大崎下島)


2025年10月7日火曜日

北郷中学校のふるさと学習で講演(9月25日)

 9月25日(木曜)午後、本学ライフデザイン学科の大成経凡先生を講師に招いた「ふるさと学習」の講演会が、今治市立北郷中学校の体育館で開催されました。対象となるのは1学年94名で、同校卒業生(1989年卒)の大成先生からは波止浜塩田や実業家・八木亀三郎などの校区の歴史地理や偉人についての紹介がありました。クイズを織り交ぜながら説明したことで、60分近くの講話もあっという間に終了し、生徒たちは楽しみながら〝ふるさとの魅力〟について学ぶことができたようです(講話の後、休憩をはさんで質問タイム)。波止浜や波方の地名が塩田開発に関係していることや、JR波止浜駅のホームが曲がっていることなど、ふだんの生活で当たり前と思っていることの中に、実は大切な歴史が潜んでいることを知ってもらえたようです。クイズは8問出題しましたが、全問正解者はおらず、7問正解者の中からジャンケンでチャンピオンを決め、同校卒業生の洋画家・智内兄助画伯の直筆サインをプレゼントさせていただきました。



 10月22日(水曜)午前中にも、生徒たちはこの日学んだことを参考にしながら、校区内の史跡や名所を自転車で巡る予定です。その際、チェックポイントの一つ・波止浜龍神社で大成先生が現地ガイドを生徒全員(グループごと)に行うようで、これは今治市の「ふるさとキャリア教育」の一環としても注目される取り組みといえます。この年代で身近な地域に関心を持つことが、将来的にふるさとの人財育成や定住促進につながることを願っています。




今治市SDGsまちづくりプロジェクト始動(9月21日)

 9月21日(日曜)午前中、今治市みなと交流センター「はーばりー」で、今治市SDGsまちづくりプロジェクトの第1回講座が開催されました。本プロジェクトは、今治市で暮らす高校生が、「将来も住み続けたい今治市」の姿を自らの 視点で描き提案する取り組みです。自身の人生をイメージしながら、企業・自治体・まちづくりに 関わる人々との対話を通して、今治の未来に必要な制度・施設・働き方・暮らし方を一緒に考え、最終的に 「未来の今治への提案」としてまとめます。当日は、今治工業高校、今治東中等教育学校、FC今治高校里山校の3校から、生徒10名の参加がありました。


会場の様子

 講座は1月24日まで5回実施され(10/19、11/8、11/16、12/14)、最終回で生徒たちがイオンモール今治新都市(予定)で練り上げたプランを公開発表するというもので、これはというものは今治市の今後の施策にも反映されるとのことです。本プロジェクトの監修者の一人・愛媛大学の小林修先生からは、講座の端々で型にはまらない奇抜なアイデアへの期待が生徒たちに投げかけられていました。

この日、プロジェクトを主催する今治市からは、今治市の抱える課題と持続可能な地域を目指す取り組みについて発表があり、事業受託者の日本旅行からはSDGsの基礎知識についてのアドバイスがありました。本学の大成経凡先生も監修者の一人として登壇し、今治市の歴史や産業に影響を与えた風土の話、今治市の魅力のとらえ方など、グローカルな視点(グローバル✕ローカル)での講話を1時間余りさせていただきました。例えば、今治地域の造船業や海運業の身近なルーツに〝塩田〟があり、村上海賊とは直結しない点を強調していました。時間が足りず、伝統工芸の菊間瓦や桜井漆器については紹介できませんでしたが、グローカルな視点からアイデアを導き出す手法を少し感じ取ってもらえたなら幸いです。


大成先生の講義

近年、愛媛県内の高校では地域探究の取り組みが盛んに行われていますが、本学教員も出張講義などを通じてそのお手伝いをさせていただきたいと考えております。早速、同席した今治工業高校の先生から、同校造船機械科の生徒を対象にした「船学(ふねがく)」で大成先生に出張講義の相談がありました。各種テーマにご対応いたしますので、本学入試課へお気軽にご相談ください。




2025年10月6日月曜日

越智郡上島町をフィールドワーク(9月20日)

 9月20日(土曜)午後、連携協定のパートナーである智内兄助一般財団法人のメンバーとともに、越智郡上島町をフィールドワークしました。本学からは来年度新設の地域未来創生コースを担当する大成経凡先生が同行し、岩城島の「岩城郷土館」「岩城八幡神社」と佐島の古民家ゲストハウス「汐見の家」を視察しました。アクセスは、しまなみ海道を経由して因島で降り、同島の長崎港から生名島の立石港へ上陸。あとは、ゆめしま海道でつながった上島町の島々を車で移動というものでした。上島町は広島県との県境にあって、今治市と隣接しながらも遠くに感じます。弓削島には愛媛県立弓削高校もあって、大成先生自身もいつか同校の地域探究の授業にかかわりたいそうです。

 岩城郷土館は〝旧島本陣三浦邸〟とも称され、町指定文化財にもなっている歴史的建造物です。棟札によると、幕末の慶応元(1865)年9月落成のようで、当時岩城島の豪商であった三浦家(東三原屋)の屋敷内にありました。本陣の意味は、貴人の宿泊するところで、戦場にたとえるならば大将が陣取る場所をいいます。藩政時代、岩城島は生名島とともに松山藩領に属し、船で参勤交代を行う際は自領の最北端に位置しました。参勤交代や領内巡視で藩主の立ち寄る機会があったようで、その場合に備えて藩は岩城島に「御茶屋」という藩主の休息・宿泊する施設を設けていました。本陣については、他の大名や幕府役人が立ち寄る際に使用するのが通例ですが、実際にこの三浦邸の本陣がどのように使われたのかは分かっていません。幕末動乱期につくられたということは、やはり幕府役人や戦時への備えのように感じます。松山藩は、航路沿いでは津和地島・三津浜・興居島にも御茶屋を設けていましたが、本陣があったのは岩城島だけでした(興居島は18世紀後半に廃止)。今治藩は、弓削島に御茶屋を設けていました。


岩城八幡神社からの眺め

 現在、岩城郷土館は島本陣の設えを学ぶことができる貴重な海事遺産といってもいいでしょう。昭和57(1982)年4月に岩城村の郷土資料館となる前は、建物が老朽化して存続が危ぶまれていたとか。三浦家が村へ寄贈することで、朽ちた部分を修復して今日にいたっております。大成先生は22年ぶりの訪問になったようですが、前回の印象は、建物の設えよりも、ここを歌人の若山牧水や吉井勇が訪ねたエピソードに重きが置かれていたように感じたそうです。それが今回は、建物の設えや使用されている建材などに心が躍りました。それもそのはず、近年、中庭・坪庭の手入れを行う住民有志が現れ、インバウンド向けに羽織を用意するなど、滞留時間が長くなる工夫が見られたのです。庭がよみがえると屋敷は本来の輝きを取り戻し、癒される空間へと変わります。今回は、再生に尽力する「三浦邸ふれんず」代表の山本こころさんから、手作りおはぎのもてなしを客間(藩主の部屋)で受け、同館の魅力を再発見しました。


旧島本陣で心温まるおもてなし

旧島本陣の客間(藩主の間)

手入れが行き届いた中庭


以下は町に対するアドバイスとなりますが、もう少し、建物の設えに重きをおいたパンフレットを作成すべきだと感じました。どこにも建物の竣工年が記されていません。また、「御茶屋」と「本陣」の違いを理解し、比較対象となる類似の施設を把握する必要性があります。三浦家は、岩城村で天保10(1839)年に没落した庄屋・白石家に代わって同12年から庄屋となった豪商で、近くの岩城八幡神社の寄進石造物を見ると、刻まれた銘からもそのことがうかがえます。この白石家没落の理由が判然とせず、大成先生は同島の塩田開発にからみ、投資に見合う成果が得られず、経営不振に陥った可能性を想定しているようです。この三浦家は、金融・廻船・塩田経営で財をなしたようですが、廻船の活動については石見国外之浦(現、島根県浜田市)・清水家の「諸国御客船帳」に享和3(1803)年6月から天保5(1834)年5月まで8回の寄港を確認でき、縞木綿や食塩を積み荷として廻漕していたようです。藩の御茶屋が設けられ、港湾整備が進むにしたがって、町場の機能も備えて問屋が立ち並びます。岩城島は藩政時代から1島1村の行政区でしたが、綿花栽培と塩田経営、海を生業とする出稼ぎなどで賑わったようで、その富の集積を旧島本陣や神社の寄進石造物などからうかがい知ることができます。もっと他にも連関させて見るべきポイントがありますが、その課題は地域未来創生コースの活動にとっておきたいと思います。

 その日の夜は、佐島の「汐見の家」で食材を持ち寄り、食卓にはイギス豆腐や鯛のお刺身、アコウ(キジハタ)の煮つけなどが並びました。智内画伯も懐かしい海の幸に大喜びでした。そうして、オーナー・管理人ら島民との親睦を図りましたが、土地の地域課題と真摯に向き合い、楽しみながら暮らしている姿が印象的でした。同所は宿泊もできますので、いつか学生たちを引率して訪ねたいと思います。


ゲストハウス「汐見の家」


「汐見の家」の団らん



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