10月11日(土曜)午前中、本学3号館333教室で、「今治地方の風土と産業 ~製塩業と海運業の身近なルーツ~」の演題で公開講座が開催されました。受講者約20名の中には、父親と一緒に受講する小学6年生の児童もいました。
かねてから、今治地方の歴史をテーマとする講座内容の要望が多くあったことから、今回は地域史研究家でもある本学の大成経凡先生が登壇し、先生の十八番でもある入浜(いりはま)塩田開発に始まる今治地方の製塩業史についてご講演いただきました。そもそも、藩政時代に瀬戸内海沿岸で普及した入浜塩田は、瀬戸内海式気候や花崗岩質(かこうがんしつ)の土壌といった風土が大きく影響していました。1683年に誕生した波止浜塩田を事例にあげながら、国内塩業がどのように進展し、瀬戸内海地方の人々の暮らしに影響を与えたのかを解説しました。
入浜塩田に最適な条件を備えた瀬戸内海地方では、江戸時代後期になると国内塩の約9割がそこで生産されたようです。しかし、生産過剰で塩価が下落すると、主要な塩田産地が協議して生産調整を行うなどの努力も見られました(十州塩田同盟)。江戸後期から、窯焚き燃料が松の薪(たきぎ)から石炭に変わっていくのも、産地の努力の賜物で、冬季中は操業しないなどの取り決めもされたようです。その冬季中に、今治地方の島しょ部では、塩田労働者の浜子の中に杜氏(酒造り)の出稼ぎをする人々もいたようです。
藩がなくなった明治以降も、生産過剰には歯止めがかかりませんでした。これは明治38(1905)年1月施行の塩専売法によって、政府が生産・流通・販売に強い権限を持って小規模塩田や不良塩田を整理するなどして、徐々に解消されていきました。今治地方では、その専売制施行までの過渡期において、明治20年代に波止浜の商人・八木亀三郎が瀬戸内海の食塩を朝鮮元山やロシア沿海州のウラジオストクへ帆船で売りに行くという、いわゆる今治地方最初期の外航海運業が見られました。結果的に、亀三郎は明治26(1893)年からニコライフスクを拠点に塩蔵鮭の製造・輸入で富を蓄積していきます。現地のアムール川河口で捕れたサケ・マスを瀬戸内海産の塩にまぶし、その食塩の海上輸送でも利益を得たのです。愛媛を代表する実業家として成功した亀三郎は、その後、波止浜船渠造船所(現、新来島波止浜どっく)や今治瓦斯(現、四国ガス)の創設にもかかわり、今治商業銀行(現、伊予銀行)の頭取を明治32(1895)年から30年余り務めるなど、〝今治地方の渋沢栄一〟のような活躍を見せます。
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1927年頃撮影の波止浜湾と入浜塩田 |
波止浜船渠造船所は、波止浜の塩田地主である浜旦那たちの出資で誕生した、愛媛県最初の本格的な洋式造船所といえるものでした。波止浜塩田の42番浜を廃止し、その用地にあてました。当時、わが国は海運ブームが到来し、当地方でも船主が増え始め、海上輸送が盛んな時期でした。塩田の豊かさが、当地方に近代造船業や海運業をもたらす要因ともなります。亀三郎については、少なくとも明治37(1904)年に3,000総㌧級の大型鉄鋼船「樺太丸」を所有していたことが分かっていて、これは当地方における大型鉄鋼船主の嚆矢(こうし)といえるものでした。波方船主については、塩専売制導入後、瀬戸内海に集中する塩田の動向をみて、石炭積出港の宇部(山口県)や門司・若松(福岡県)へ帆船を走らせ、そこで石炭を積載して多喜浜や赤穂、坂出や鳴門などの塩田産地へ運ぶことで隻数を増やしていきました。帆船は昭和初期になると機帆船へと変わり、船のサイズも大型化していきました。当地方の海運業の勃興には、塩田用石炭の輸送が大きく関係しているのです。
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1941年撮影の波方船主の機帆船 |
今治地方最初の洋式造船所の波止浜船渠 |
最終的に、わが国の塩田は昭和46(1971)年の第4次塩業整備でなくなり、食塩はすべてイオン交換膜製塩工場で製造されることとなります。その際、伯方島の塩田を残して欲しいという消費者運動が松山市で起こり、その関係者が同48(1973)年に伯方塩業(株)を創業し、オーストラリアまたはメキシコの天日海塩を輸入することで、塩田塩を国民が食する道が部分的に認められました。同社は、自社の塩を売るため、国内の塩メーカーで初めてTVコマーシャルにも挑戦しました。あの有名な「は・か・た・の・し・お♪」です。平成9(1997)年に塩事業法が施行されると、誰もが許可制で塩をつくれる時代となり、食品表示のいい加減な塩メーカーが乱立して消費者は混乱をきたします。このとき、同社の丸本執正社長が主要塩メーカーと連携し、平成18(2006)年に食用公正取引協議会準備会を設立し、今日の〝しお公正マーク〟の導入につなげました。同マークの塩商品は、食品表示をみれば製造方法がひと目で分かり、こだわり塩を食したい消費者には安心・安全が担保されました。そして同社は、念願であった枝条架流下式塩田を平成22(2010)年10月に大三島工場へ復元し、そこで製造される〝されど塩〟〝されど藻塩〟という商品は、今治の海水を用いた100%の食塩となります。
伯方塩業(株)が復元した枝条架流下式塩田 |
以上、塩にまつわる話を風土や海事産業と関連させながら、最後はFoodのお話で締めくくりました。この日の講演内容は、日を改めて今治CATVの番組で放送予定です。