10月11日(金曜16:10~17:40)の「日本学ぶⅡ」(大成経凡先生)は、短大からバスで10分ほどの距離にある野間地区の中世石塔群を訪ねました。田園地帯のひっそりした場所に、鎌倉時代末期に造立された石塔群がコンパクトにまとまって点在しているのです。視察したのは覚庵五輪塔・長円寺跡宝篋印塔・馬場五輪塔の3か所で、それら4基の石塔はいずれも国指定重要文化財〝文化財の王様〟です。石材は、花崗岩(かこうがん)と呼ばれる硬い石から出来ており、高さは学生たちの身長をはるかに凌ぎます。
こうした石塔は鎌倉仏教の普及とともに全国各地で造立されるようになりますが、鎌倉時代後期から南北朝期にかけての時期が最も大型で意匠性にも優れています。保存状態が良好だと文化財の指定を受けます。これより時代が下ると、小型化して意匠性が劣る傾向にあり、その分、造塔数は増えていくのです。どういう歴史背景があって、野間地区にこれらが造られたのか謎に満ちていますが、長円寺跡宝篋印塔は1325年に夫に先立たれた妻が弥勒菩薩(みろくぼさつ)信仰にもとづいて造立したことが塔に刻んだ銘文から分かります。馬場五輪塔は、銘文から1326年に亡き妻(紀氏女/きしむすめ)のために夫が造立したようで、解体修理の際に骨をDNA鑑定したところ25歳前後の女性と分かりました。馬場五輪塔の意匠・大きさとよく似た五輪塔が覚庵五輪塔で、こちらは2基が寄り添うように並び立ち、前述の銘文などを参考にすると夫婦墓だと考えられます。
覚庵五輪塔 |
長円寺跡宝篋印塔 |
馬場五輪塔 |
全国各地の事例を見ますと、高僧や政治的な権力者がそれらの時期に威信を示すために造立に励むのが一般的です。なぜか野間地区には家族単位の造立のあったことが読み取れ、さては夫婦仲のよい土地柄だったのかと700年前に思いを馳せずにはいられません。国東半島や鎌倉・箱根などでは安山岩や凝灰岩といった軟らかい石材を用いており、風化や倒壊によって欠損やひび割れが散見できます。それが野間地区の場合は、700年前の雄壮な意匠そのままに現在も凛とした姿で存在していることに大きな価値を感じます。
田園の中を移動中 |
参加した学生40名の国別内訳は、ネパール18・ミャンマー16・中国3・日本2・ベトナム1でした。ネパール人男子からの質問は、「地震の多い国・日本なのに、倒壊しなかったのか?」と。実は地震を想定してパーツごとに凸凹の溝が設けられています。ミャンマー人女子からの質問は「遺体をどのように葬ったのか」と。火葬して骨壺に入れて、墓下に供えました。以上のようなやり取りの中、キンモクセイ香る田園風景の中を散策し、夕暮れ時の日本の秋を満喫しました。