11月8日(金)の「日本を学ぶⅡ」(大成経凡先生)は、40名の履修生とともに「今治城跡」(県史跡)を散策しました。40名のうち日本人は1名しかおらず、留学生の構成はネパール人18名・ミャンマー人15名・中国人5名・ベトナム人1名というものでした。前回の授業で〝現存12天守〟について学び、近世城郭への関心を高めたうえでの現地視察となりました。
系統立てた歴史解説が難しいことから、1867年に撮影した今治城最古の古写真をもとに、現地を散策しました。再建した隅櫓(すみやぐら)は鉄筋コンクリート造でできていて、鉄御門(くろがねごもん)は木造建築となります。五層の天守については、もともと建っていたかどうかは研究者で意見が分かれています。大成先生は〝建っていなかった〟説をとられているようです。そのため、現在の天守は模擬天守(6階建て)として昭和55(1980)年に鉄筋コンクリート造で建てられました。
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山里櫓を下りた場所 |
鉄御門をくぐるにあたって、城内へ攻め入る敵に集中攻撃を与える構造であることを解説。敵に脅威を与える大きな石〝勘兵衛石〟(かんべえいし)がそこにあって、大抵の近世城郭にはこうした石が大手門の石垣の中に見られることを伝えました。勘兵衛は、今治城を築城する際の普請奉行・渡辺勘兵衛の名前に由来します。また、今治城石垣の石材も話題にとりあげ、本来なら築城には不向きな石灰岩が多く用いられていて、これは石不足に悩んだことを物語っているようです。
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鉄御門で勘兵石を解説 |
つづいて、藤堂高虎像の前で記念撮影しました。今治城は、〝築城の名手〟とされた高虎が関ヶ原の戦い(1600年)後に築城に取り組み、1608年頃には完成したとされます。徳川家康の意向を汲んで、豊臣大名や西国大名の監視で築いた城ともいわれ、その後の徳川系の城のプロトタイプとして位置づけられています。しかし、高虎は今治城が完成するや、幕府の指示で伊賀・伊勢(現、三重県)へと国替えとなりました。今治城そのものに長く在城した大名は久松松平家で、初代藩主の松平定房は徳川家康の甥でありました。今治城は同家との関係が長いにもかかわらず、市民意識や観光客の意識の中では、今治城といえば〝高虎の城〟なのです。
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藤堂高虎像前にて |
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車窓から今治城跡を鑑賞 |