高大連携事業の一環で、2月21日と22日、隣接するFC今治高校里山校1期生の地歴科の授業で出張講義を行いました。講師は、いまばり博士検定の監修者でもある、本学地域連携センター長の大成経凡先生が務めました。大成先生が同校で出張講義を行うのは、今回が4回・5回目となります。テーマは、生徒たちの要望に応じて〝今治城の魅力を知ろう〟ということに決まり、21日は教室で近世城郭のイロハや現存12天守のお話、今治城を築かせた藤堂高虎にまつわるお話など、翌22日の学外授業に興味関心が向かう内容を心がけました。生徒の多くが今治市以外出身のため、滋賀県出身の生徒には「高虎が近江国(滋賀県)出身ってことは知ってるよね?」の質問。兵庫県出身の生徒には「今治城の縄張(なわばり)プランをそのまま兵庫県の盆地に移したのが丹波篠山城なんだよ!」といった話題提起を行いました。生徒に一番受けた話は、最近、ホテルルートイン今治店に宿泊した観光客が、チェックインに際してホテル職員に訊ねた質問「ちょうど今、ホテルに到着する前に車窓から見えた城は今治城ですよね。ここから歩いてすぐの距離だから、散策マップがあればちょうだい!」というものでした。残念ながら、それは高井さんが経営する高井城というお城のマンションというのがオチで、今治城は海岸にあって、かつて三重のお堀には海水が導かれていたという話をさせてもらいました。中堀は昭和20年代に埋め立てられて消滅し、外堀は幅をせばめて今治銀座商店街に沿って金星川として現存しています。ドンドビ交差点は、その外堀の西側の角に位置します。かつては、海水と淡水とが干満に応じて出入りする場所で、水量調整を目的に樋門が設けられていました。その出入りの様子が〝吞んだり、吐いたり〟ということで、吞吐樋(どんどび)の地名が生まれたのです。そんなトリビアを織り交ぜながら、21日は言いたいことの6〜7割程度で終了。
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座学の様子 |
22日は、冷え冷えする8時50分から藤堂高虎像前で今治城ガイドをスタートしました。「天守閣が本当に建っていたのかどうかは分かりません。仮に建っていたにしても、建っている場所が違うし、外観のデザインも違います」「現在の鉄筋コンクリート造6階建ての模擬天守は、昭和55(1980)年に市制60周年記念でつくられました」など、前日の振り返りをしながら、平成19(2007)年に再建された鉄御門(くろがねごもん)へ移動。大手門に位置する鉄御門では、高虎の城郭に特長的な〝桝形虎口(ますがたこぐち)〟という、クランクした城門の構造を解説し、攻め入る敵兵の気持ちになるよう伝えました。また、石垣に使用されている岩石に石灰岩が多いことにも注目。そのことが、築城に際して石不足に悩まされたことを物語っているのです。石灰岩の石垣の表面には、貝類が体液で開けた穴のある点に注目し、本来は城の石垣に用いるような石ではない点を知ってもらいました。花崗岩(かこうがん)についても、品質が劣る脆(もろ)いものを用いていることから、ひび割れが散見できました。
藤堂高虎像と模擬天守 |
一方、桝形虎口の空間には、一つだけ特別に大きい〝勘兵衛石〟(かんべえいし)という石垣あります。これは見付石(みつけいし)や鏡石とも呼ばれ、攻め入る敵兵を威圧する効果があったようです。他の近世城郭でも、大手門の桝形虎口でよく見受けられます。想像力をたくましくすると、「俺が手がけた城を落とせるものなら落としてみろ!」という、築城奉行の気概をくみ取ることができます。今治城の場合は、渡辺勘兵衛がその地位にあって、陣頭指揮をとっていました。また、土木作業の現場にも、木山六之丞という監督がいて、肉体労働の慰安で誕生した労働歌が、やがて木山音頭という民謡になります。木山音頭は、今治市の夏の祭典「おんまく」の踊り連の課題曲にもなっています。
鉄御門(桝形虎口)の勘兵衛石 |
この日のガイドのメインディッシュは、ふだん観光客が進入できない〝犬走り〟に立ち入ることでした。それは内堀の水際から立ち上がる高石垣の裾にあって、土木造成で脆弱な地盤を克服するなど、当時の築城技術の粋が詰まっているのです。見えないその地下には、生松丸太が梯子胴木(はしごどうぎ)で眠っていると考えられ、その上に砂利や土、根石などを敷くことで強度な地盤が形成されています。今治城が立地する場所は、かつて海からの砂が吹き上げた海浜で、そのことから同城を〝吹揚城〟や〝美須賀(みすか)城〟と称することもあります(須賀は砂地や砂丘を意味する)。築城の名手は、石不足や脆弱な地盤を克服する中で、この城を築き上げたという点を生徒たちには理解してもらいました。
本丸隅櫓台すその犬走り |
内堀には、何やら魚が泳いでいたようですが、どんな生物が棲息しているのでしょう。廃城後の明治期から昭和初期にかけて、ここでは牡蠣(かき)の養殖がおこなわれていたことがあります(〝堀牡蠣〟で有名だった)。内港から海水が流入する一方で、地下から蒼社川伏流水が沸き、汽水が形成されていることを生徒たちには伝えました。そのため、クロダイやボラ、フグなどをよく見かけますが、メダカやクサガメも確認されています。興ざめだったのは、犬走りでペットボトルや空き缶をよく見かけたことです。沿道や城跡から投げ棄てたものか、それとも内港から流入したものか。それを見つけてゴミ拾いする生徒もいました。
最後は、今治市開市記念で大正9(1920)年に竣工した本丸隅櫓台(すみやぐらだい)の時報塔へ。この日は6階建ての今治城天守(博物館)は見学しなかったため、本丸隅櫓台から市街の景観を眺めました。そこは、大正11(1922)年に皇太子殿下(後の昭和天皇)が今治市を行啓した際にお立ち寄り(御野立)になった場所で、その記念碑が昭和になって建てられています。時報塔は廃墟となっていますが、かつて市街にモーターサイレンが鳴り響いたことを想像しますと(太平洋戦争末期は空襲警報)、歴史を物語る貴重な近代化遺産といえます。今治市にとって、そこは特別な場所なのです。そうこうして、10時20分に授業は終了となりましたが、いつも大成先生が本学で実施している学外授業の醍醐味が詰まっていたように思います。令和8年度新設の「地域未来創生コース」では、地域探究を授業の柱にすえ、現地現場で得た知見を個々の成長につなげたいと思います。
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時報塔と皇太子殿下御野立之所記念碑 |