10月16日(金曜)午後の「日本を学ぶⅡ」(大成経凡)は、先週につづいて16名の履修生をともない、学園バスに乗って学外授業でした(国別内訳は日本7・中国5・ミャンマー4)。今治市は高縄半島の陸地部と芸予諸島の島々からなりますが、今回は陸地部西端の菊間町沿岸地区を訪ねることにしました(片道約30分)。菊間といえば、何と言っても〝菊間瓦〟。かつては全国有数の粘土瓦産地で知られましたが、直近は瓦業者が8社にまで減っていて、産地の地位は低下しています。この背景には、地元で瓦粘土が採れなくなったことや瓦を葺く住宅の減少、零細経営で後継者がいないことなどが挙げられます。確かに本学周辺の家並みを見ても、新しい建物には菊間瓦が葺かれておらず、「伊予の建て倒れ」の象徴でもあった〝屋根に菊間瓦を葺く〟という行為は失われてしまったかのようです。
見学で訪ねた菊間町浜の市立「かわら館」は平成9(1997)年の開館で、当時はまだ多くの業者がいて活気がありました。窯元のガス窯からあがる白色や黄色の煙もよく見受けられました。本授業でも、過去には鬼瓦や飾瓦を専門に手がける窯元を視察に訪れていましたが、2年前の廃業により視察場所がなくなりました。菊間瓦は、愛媛県の伝統的特産品にも指定されているだけに、持続可能な地場産業として未来へ継承する必要があります。そのためにも、ルーツを学ぶ博物館の存在はとても大切で、窯元を訪ねることがなくなって以降は、かわら館を訪ねるようになりました。
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| かわら館 |
館内では、大成先生が〝特にこの2つの展示品はしっかり覚えておくように!〟と解説がありました。一つは、菊間瓦の飛躍のルーツに当たる、明治時代に「皇居御造営瓦」を受注した際のサンプルです。これは、全国の粘土瓦産地の中から三州・泉州・菊間の3産地だけが選ばれ、品質の良さを認められた証なのです。その栄誉に対して、藩政時代からつづく窯元を中心に、明治から新規参入した瓦業者らが融合し、菊間瓦の品質向上をはかるために明治19(1886)年に初めて同業者組合がつくられました。もう一つは、広島市街で被爆した菊間産の屋根瓦です。菊間瓦は、昭和戦前には船を使って瀬戸内海沿岸各地に運ばれていたため、広島市の建物にもたくさん用いられていました。かつては、ダルマ窯と呼ばれる土窯で焼成を行っていましたので、焼成温度は1,000度弱でした。それを上回る温度を瓦が浴びると、表面は沸騰して火ぶくれを起こし、被爆瓦にはその痕跡がうかがえます。いかに放射能の熱風が脅威であったのかがひと目でわかる被災資料でもあるのです。その他にも、江戸後期に造立された瓦製の灯籠があり、それは岬の突端にあって夜間は灯台の役目を果たしていたようです。
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| 皇居御造営瓦のサンプル |
より詳しい歴史解説は次週の座学で行う予定で、帰路は大西町の小部(おべ)湾に臨む海浜公園を2か所訪ねることにしました。どちらも箱庭のような景観で、星の浦海浜公園は、新来島大西どっくを間近に望み、鉄板を打ちつける金属音がよく響き渡っていました。鴨池海岸公園は、大成先生の学外授業では亀老山展望台と並ぶ定番コースですが、この日は夕陽を観賞することができました。うらやましいと感じたのは、花金(花の金曜日)ということで、BBQの懇親会を催す会社の先発部隊が資材を運び入れる場面に遭遇したことです。同所は、市内有数の人気のキャンプ場でもあります。大成先生の「地域交流演習」が、12月に玉川町龍岡の「森のともだち農園」でBBQを予定しており、今治市には海あり山あり、さまざま魅力のあることを学生たちには身をもって知ってもらいたいですね。
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| 鴨池海岸の夕陽 |





