2023年6月7日水曜日

授業紹介「日本を学ぶⅠ」の学外授業(6月2日)

 「日本を学ぶⅠ」の学外授業(6月2日)

小雨降るなか、霧のかかる来島海峡大橋を通って、大島の村上海賊ミュージアムへ行ってきました(学生15名・教員2名)。到着時、なにわナンバーの観光バス2台(中学生の修学旅行)とバッティングしたため、屋外展示場の小早船(こばやぶね)と和田竜の歴史小説「海賊たちの娘」本屋大賞受賞レリーフを鑑賞することに。


水軍レース大会で活躍した小早船


この小早船は、かつて村上海賊が使用した櫓漕ぎの小型快速船を復原したもので、毎年7月開催の水軍レース大会で使用されます(本船は廃船となって展示品となった)。今年の水軍レースには、本学からもチームを派遣する計画です(1チーム12名)。レリーフは、地元大島で採れる花崗岩(かこうがん)でつくられています。この著作以降、それまでの〝村上水軍〟という呼称が〝村上海賊〟にシフトし、ついに館名までもが「村上水軍博物館」から「村上海賊ミュージアム」へと改名されたのです。

改名の背景には、研究最前線の成果が反映されました。村上海賊が活躍した戦国時代に、彼らを水軍と記す史料が存在しないのです。つまりは、水軍という呼称は後世の言い方で、水軍は海軍と似た意味があることで、そのまま解釈すれば、村上水軍は海戦ばかりやっている武装集団ということになってしまいます。実際は、瀬戸内海の水運にかかわるビジネスマン(海運・商社)で、国家が海上交通の安全を保障できていない時代に、村上海賊のような私的機関が通行税を徴収し、パイロット業務(水先案内人)を行うことなどして、航海の安全を担っていたのです(今でいう海上保安庁の業務)。当時、彼らは海賊と呼ばれ、そこには必ずしも悪意が込められているというものでもなかったのです。そのあたりのことは、NHKブラタモリ(2021年1月放送)でも取り上げられました。

村上海賊の一派である能島(のしま)村上氏の拠点・能島城跡(国指定史跡)については、対岸の道路にバスをとめ、そこから鑑賞することにしました。村上海賊の拠点は航路をにらむ小島や岬、あるいは主要な港湾の入口に築かれることが多く、現代の感覚でとらえると、「えっ、これが城郭?」と首をかしげたくもなります。今日の海上交通センター(灯台を含む)や港湾管理施設のような役割ととらえれば、合点(がてん)がいきやすいと思います。それらの城は〝海城〟(うみじろ)と称されたりもします。最近になって能島城跡(能島と鯛崎島)は、不要な雑木やソメイヨシノを伐採し、本来の海賊時代の城をイメージしやすいよう整備がはかられました。日本遺産にも選定され、ホンモノ志向の保存整備と観光振興の両輪を推進すべく、様々な取り組みが展開されています。留学生たちには、英語と中国語のパンフレットが配布されました。


能島城跡を対岸から鑑賞

 館内では、村上海賊以外の展示品を特別に拝観させていただくことができました。それは、まだ瀬戸内海が湿地や陸地だった旧石器時代の考古資料で、地元の宮窪漁師の網にかかって揚がったナウマンゾウの化石たちです。伯方島と岩城島の間の海底でよく揚がるそうで、ある漁師宅の床の間や玄関には、ナウマンゾウの牙が飾られていたりするとか。まさに、海から揚がった宝物で、「まだ日本列島が大陸とつながっていた時代の当地方には、ゾウがたくさんおったんぞう」と口走りそうになりました。大島は花崗岩という石の産地で知られますが、化石の水揚げ産地でもあるのです。旧石器時代の学習は次回の授業でするため、効果的な教材となりました。


ナウマンゾウの化石

 その他、今春4月にマレーシアの銀行王のタンスリ・アズマン・ハシム氏が巨費を投じて今治市へ寄贈した「橋夢公園」も見学。この公園整備は、ハシム氏の祖母が今治市宮窪町余所国(よそくに)出身という縁から実現したプロジェクトで、地元の大島石をふんだんに使った日本庭園・屋外イベント施設になっています。その場所には、かつて余所国小学校があり、大島石産の二宮金次郎像や門柱も残されています。海のそばということで、沖の島々の景観も楽しむことができます。また、よしうみバラ公園にも立ち寄りましたが、こちらは28日の本学オープンキャンパスのオプショナルツアーでも訪ねた時と景色が一変。29日以降の雨で萎れてしまったバラの花が多く、落花も見られて少し残念でした。最盛期であれば、約400種3,500株の色とりどりのバラを楽しむことができました。それでも、初めて訪ねた学生たちは、思い思いにバラを楽しんでいる様子でした。


橋夢公園


よしうみバラ公園


霧の来島海峡大橋


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