12月6日(金曜)の「日本を学ぶⅡ」(大成経凡先生)は、38名の学生(日本1・ベトナム1・中国3・ミャンマー15・ネパール18)と今治市古国分にある「今治藩主の墓」(県指定史跡)を訪ねました。前回の授業では、江戸時代の幕藩体制について学習し、藩主(お殿様)のことが話題にあがりました。
今治市民の多くは、今治城といえば築城にかかわった〝藤堂高虎〟のことばかりを話題にし、その城主を1635年から1871年までつとめた久松松平家(本姓が久松)は影が薄い状態です。廃藩置県(1871年)後に、久松家が城を払い下げして東京へ移住し、今治との関係が断ち切れたことも要因の一つであります。藩政時代に、城下町の北には寺町が配置されていましたが、そこに藩主の墓はなく、なぜか唐子山(からこやま)丘陵に霊廟(れいびょう)は設けられました。
1635年に今治へ3万石で入部した松平定房(さだふさ)は、徳川家康の甥でありました。同年、実兄の松平定行(さだゆき)は15万石で松山へ入部し、今日の今治市域は今治藩・松山藩双方の領知で二分されることになります。今治市だから、すべてが今治藩領ではないのです。桜井地区でも、古国分は今治領で、浜桜井・郷桜井は松山領(後に天領)に分かれていました。そんな血筋も影響し、初代藩主・定房は江戸城留守居の幕府役職に就任するなど、将軍家からの信頼が厚かったようです。
墓石(良質な花崗岩)を見ると、小大名ながらとても豪壮で、五輪塔と宝篋印塔の折衷様式の意匠のように見受けられます。墓石の基礎に見られる陽刻彫りのマークは、梅の花をかたどった「梅鉢紋」(うめばちもん)と称され、これが久松松平家の家紋であります。同じ紋様は天満神社の神紋にもなっています。天満神社の祭神は、学問の神様の〝菅原道真〟ですが、久松松平家の先祖が道真のようです。そのため、桜井地区には今治藩と松山藩の双方の天満神社があり、両社は綱敷天満宮(新天神・古天神)として現存しています。
初代松平定房の墓 |
今治藩主の墓 |
ところで、最後の藩主は10代久松定法(松平姓から久松に復姓)ですが、同所には初代定房・3代定陳(さだのぶ)・4代定基(さだもと)の3人のお墓しかありません。〝それはなぜか?〟を学生たちには考えてもらいました。ヒントは参勤交代の制度です。藩主は1年おきに江戸と領地を往復する決まりで、江戸で亡くなった藩主たちは江戸の菩提寺(霊巌寺)に葬られたのです。つまり、今治で亡くなった藩主は3人ということになります。もしも歴代全員の墓が今治にあったなら、どれだけ壮大だったことでしょう。そんなことを考えながら、霊廟がある丘陵を下りて唐子浜へと向かいました。
唐子浜は、瀬戸内海を代表する白砂青松の砂浜海岸です。砂が多いというだけでなく、背後に海浜植物と松並木がつづき、自然景観としても希少価値が高い場所です。あいにく雲が多くて夕陽の空を楽しむことはできませんでしたが、学生個々でリラックスした時間を10分ほど過ごすことができました。
唐子浜 |